「医師」と聞くと、多くの人が「安定」「高収入」「食いっぱぐれない」といったイメージを持つのではないでしょうか。確かに、国家資格に裏打ちされた専門性と社会的な需要の高さから、医師は長らく安定した職業の代表格とされてきました。私自身も、かつてはその「安定神話」を信じ、一つの病院組織に身を捧げることが最良の道だと考えていた時期があります。
しかし、本当にそうでしょうか?現代において、医師を取り巻く環境はかつてないスピードで変化しています。
- 働き方改革の波: 長時間労働が問題視され、タスクシフト/シェアが進む一方、個々の医師の裁量や働き方の自由度が必ずしも向上しているとは言えません。むしろ、時間外労働の上限規制などにより、これまで通りの働き方では収入が減少する可能性も出てきています。
- 診療報酬の改定: 数年ごとに行われる診療報酬改定は、医療機関の経営、ひいては医師の待遇に直接的な影響を与えます。高齢化社会の進展に伴う医療費抑制の圧力は今後も続くと考えられ、楽観視はできません。
- 医療のAI化・テクノロジーの進化: AIによる診断支援やロボット手術など、テクノロジーの進化は医療の質を向上させる一方で、医師の役割を変化させる可能性を秘めています。特定のスキルや専門領域に特化しすぎていると、将来的に需要が変化するリスクも考えられます。
- 予期せぬパンデミック: 近年の感染症の流行は、医療現場の脆弱性や、特定の診療科への負担集中、社会全体の経済活動への影響など、予期せぬリスクが現実のものであることを私たちに突きつけました。
こうした変化の激しい時代において、「一つの組織に所属し、専門分野の仕事だけをしていれば安泰」という考え方は、もはや幻想になりつつあるのかもしれません。
そんな時、私が出会ったのが「仕事のポートフォリオ」という考え方です。これは、変化の激しい現代を生き抜くための、新しいキャリア戦略の指針となるものでした。本記事では、医師こそが知っておくべき「仕事のポートフォリオ論」について、その考え方と実践方法、そして具体的なメリットを、私自身の経験も交えながら解説していきます。
ポートフォリオとは何か?
「ポートフォリオ」という言葉は、もともと金融・投資の世界で使われてきたものです。株式、債券、不動産など、値動きの異なる複数の資産を組み合わせて保有することで、特定資産の下落リスクを他の資産でカバーし、全体として安定したリターンを目指す戦略、すなわち「資産の分散戦略」を指します。
この「ポートフォリオ」の考え方を、私たちの「人生」や「仕事」に応用しようというのが、「人生のポートフォリオ」「仕事のポートフォリオ」の考え方です。
独立研究者であり、著述家、パブリックスピーカーとしても活躍される山口周さんは、その著書『人生の〈意味〉の見つけ方』や『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』などの中で、このポートフォリオ的な生き方の重要性を説いています。
山口さんは、現代社会が「高原状態」(大きな経済成長が望みにくい成熟した状態)に入り、変化が激しく不確実性が高まっている中で、「一つの大きなもの(例:会社、特定の専門性)に自分の人生をフルベット(全賭け)する」ことのリスクを指摘します。組織の寿命が個人の職業人生より短くなることも珍しくない現代において、一つの組織や職業だけに依存することは、その組織が傾いた時、あるいはその職業の需要が変化した時に、共倒れになる危険性を孕んでいるのです。
そこで重要になるのが、ポートフォリオ思考です。具体的には、
- 収入源の分散: 一つの給与収入だけに頼るのではなく、複数の仕事や事業から収入を得る。
- 役割・アイデンティティの分散: 「〇〇病院の医師」という単一の役割だけでなく、例えば「産業医」「研究者」「教育者」「情報発信者」など、複数の役割やアイデンティティを持つ。
- スキル・経験の分散: 特定の専門分野だけでなく、関連領域や全く異なる分野のスキル・経験を意識的に獲得する。
- 人間関係・コミュニティの分散: 職場だけでなく、学会、地域の活動、オンラインコミュニティなど、複数のコミュニティに所属し、多様な人間関係を築く。
このように、仕事、役割、スキル、人間関係などを意図的に複数持つことで、どれか一つがうまくいかなくなったとしても、他の要素でカバーでき、精神的な安定やキャリアの選択肢を確保しやすくなります。これが「仕事のポートフォリオ」の基本的な考え方です。
雇われ医師一本足のリスクとは?
では、多くの医師が選択している「一つの医療機関に所属する常勤医(雇われ医師)」という働き方、いわゆる「一本足打法」には、具体的にどのようなリスクが潜んでいるのでしょうか? ポートフォリオの観点から見てみましょう。
■ 短期的には「ローリスク・ミドルリターン」に見える魅力
確かに、雇われ医師の働き方は、短期的には安定しているように見えます。
- 安定した定期収入: 毎月決まった給与が支払われ、ボーナスも支給されることが多く、経済的な見通しが立てやすい。
- 社会的信用の高さ: 「医師」という肩書きと所属組織の看板により、ローンを組んだり、クレジットカードを作ったりする際の社会的信用は高い傾向にあります。
- 充実した福利厚生: 健康保険、厚生年金、退職金制度など、組織に守られているという安心感があります。
- 医局ネットワークの恩恵: 医局に所属している場合、関連病院への異動やキャリアパスがある程度保証されたり、研究や学会発表の機会を得られたりすることもあります。
これらのメリットは、特に若手のうちは大きく感じられるでしょう。キャリアの初期段階において、経験を積み、専門性を高める上で、組織に所属することの利点は少なくありません。
■ 長期的には「ミドルリスク・ローリターン」に陥る可能性
しかし、長期的な視点で見ると、この「一本足打法」は、知らず知らずのうちに「ミドルリスク・ローリターン」な状態、あるいはリスクが顕在化する可能性をはらんでいます。
- 経験の幅が狭くなる: 所属する病院や診療科の業務に特化しすぎることで、他の領域の知識やスキル、多様な働き方に触れる機会が失われがちです。例えば、大学病院での研究・教育中心のキャリアと、市中病院での臨床中心のキャリア、クリニックでのプライマリケアでは、求められるスキルセットや経験が大きく異なります。一つの環境に長くいると、他の環境への適応力が低下する可能性があります。
- 働き方の選択肢が減る: 組織のルールや慣習、人間関係に縛られ、独立、転職、副業(複業)といった新しい働き方へのシフトが難しくなることがあります。「今の組織を辞めたら、次はないかもしれない」という不安から、現状維持バイアスが強く働いてしまうのです。
- キャリアの頭打ちと待遇の変化: 年齢を重ねると、組織内でのポストには限りがあり、昇進が頭打ちになるケースも少なくありません。役職定年や、再雇用制度などで給与が下がったり、逆に若手の指導や管理業務など負担が増えたりすることも考えられます。「下がる給料と増える負担」という現実に直面する可能性は、誰にでもあるのです。
- 組織への依存度の高まり: 長く同じ組織にいると、良くも悪くもその組織の文化やシステムに最適化されていきます。それは安定をもたらす一方で、いざ組織の方針が変わったり、経営が悪化したり、あるいは自分自身がその組織に合わなくなったりした時に、身動きが取れなくなるリスクを高めます。
つまり、短期的な安定と引き換えに、長期的なキャリアの柔軟性や選択肢、そして変化への対応力を失ってしまう可能性があるのです。これが、雇われ医師一本足打法の潜在的なリスクと言えるでしょう。
人生には不確実性がつきまとうからこそ、仕事の分散が必要
私たちの人生は、残念ながら常に予測可能ではありません。どれだけ周到に計画を立てていても、予期せぬ出来事は起こり得ます。
- 自分自身の病気や怪我: どれだけ健康に気を使っていても、突然の病気や事故に見舞われる可能性はゼロではありません。働けなくなれば、収入は途絶えてしまいます。
- 家族の変化: 結婚、出産、育児、介護など、ライフステージの変化によって、働き方やキャリアプランの見直しを迫られることがあります。パートナーの転勤や、自身の体調変化なども影響します。
- 制度や社会の変化: 診療報酬の改定、医療制度の変更、新たな法律の施行などは、医師の働き方や収入に直接的な影響を与えます。これらは個人の努力だけではコントロールできません。
- 所属組織の変化: 病院の経営方針の転換、合併・買収、経営悪化による閉院、あるいは人間関係の変化やハラスメントなど、組織側の要因で働き続けることが困難になる場合もあります。
これらはすべて、「自分のせいではない不確実性」です。このような不確実性が常に存在することを前提とするならば、「一つの選択肢しかない状況」に自分自身を追い込むことは、実は最大のリスクと言えるのではないでしょうか。
例えば、常勤先で人間関係に悩み、精神的に追い詰められたとしても、「この病院を辞めたら収入がゼロになる」「他に行くあてがない」という状況であれば、我慢し続けるしかありません。しかし、もし他の仕事や収入源があれば、「最悪、この仕事は辞めても大丈夫」という精神的な余裕が生まれ、より健全な判断や交渉が可能になります。
だからこそ、「選択肢を狭めるアクションは、基本的に悪手である」というマインドセットを持つことが大切です。常に複数の選択肢を持っておくこと、つまり仕事や収入源、役割を分散させておくことが、不確実な未来に対する最良の備えとなるのです。
仕事のポートフォリオ、私の実例
ここで、私自身の「仕事のポートフォリオ」がどのように変化し、それが働き方や人生にどのような影響を与えたか、具体的な実例をご紹介します。
【ビフォー:ポートフォリオ導入前】
- 働き方: 週5.5~6日、大学病院の関連病院での常勤勤務(消化器内科)
- 仕事内容: 外来、病棟管理、内視鏡検査・治療、当直、研究、学会発表、若手指導など。
- 時間の使い方: 朝早くから夜遅くまで病院にいることが常態化。緊急呼び出しも多く、オン・オフの切り替えが難しい。プライベートな時間や家族との時間を確保することは困難で、常に仕事に追われている感覚。
- 仕事のポートフォリオ(イメージ):
- 勤務医(常勤): 100%
この頃は、専門性を高めることには集中できていましたが、一つの組織・働き方に完全に依存しており、まさに「一本足打法」の状態でした。収入は安定していましたが、時間的な自由はなく、精神的な余裕もありませんでした。将来への漠然とした不安も抱えていました。
【アフター:ポートフォリオ導入後】
ポートフォリオという考え方に出会い、少しずつ働き方を見直した結果、現在は以下のようなバランスで仕事をしています。
働き方: 週5日勤務を基本とし、各業務の比率を調整。
仕事のポートフォリオ(イメージ):
- 病院での非常勤勤務(週3日程度): 約55% 2箇所のクリニック・病院で循環器内科の専門外来や健診を担当。常勤時代に培った専門性を活かしつつ、安定した収入の基盤としています。常勤ほどの責任や時間外業務はなく、比較的コントロールしやすいのが特徴です。
- 産業医業務(週1日程度): 約20% 企業と契約し、従業員の健康管理や職場環境の改善に関わります。臨床とは異なる視点や知識が求められ、予防医療の観点から社会貢献できるやりがいがあります。継続的な契約が多く、安定収入にも繋がっています。
- パーソナルドクター業務(週1日程度): 約20% 個人や家族と契約し、健康相談、病院受診のサポート、セカンドオピニオンなどを提供します。患者さん一人ひとりと深く向き合え、自分の理想とする医療に近い形で関われることに大きなやりがいを感じています。将来性のある分野だと考えています。
- ブログ執筆・SNS運用など(空き時間): 約5% 自身の経験や知識を活かして、情報発信を行っています。直接的な収入はまだないですが、自己表現の場であり、同じような関心を持つ人々との繋がりを生む「無形資産」作りの一環と捉えています。
【変化したこと】
- 収入源の分散: 複数の収入源を持つことで、一つの仕事に依存するリスクが大幅に低減しました。全体としての収入も、常勤時代以上を維持できています。
- 役割とやりがいの分散: 臨床医、産業医、パーソナルドクター、情報発信者と、複数の役割を持つことで、それぞれの仕事から異なる刺激や学び、やりがいを得られるようになりました。一つの仕事で嫌なことがあっても、他の仕事で気分転換ができ、精神的なバランスが取りやすくなりました。
- 時間的自由度の向上: 週の大半が拘束される常勤勤務と比べ、自分で仕事のスケジュールをコントロールしやすくなりました。平日に休みを取ったり、家族との時間を確保したり、自己投資のための時間を作ったりすることが圧倒的に容易になりました。「常に働いている」という感覚から解放され、心身ともに余裕が生まれました。
- キャリアの選択肢の拡大: 様々な働き方を経験することで、人脈が広がり、新しい仕事のオファーを頂く機会も増えました。将来的に、さらに別の分野に挑戦したり、起業したりといった選択肢も現実的に考えられるようになりました。
もちろん、ポートフォリオを組むことは良いことばかりではありません。確定申告などの事務手続きが煩雑になったり、それぞれの仕事でパフォーマンスを維持するための自己管理能力が求められたりといった側面もあります。しかし、それらを差し引いても、私にとってはメリットの方がはるかに大きいと感じています。
医師がポートフォリオを作ると得られる3つのメリット
私の実例からもわかるように、医師が仕事のポートフォリオを意識的に構築することには、多くのメリットがあります。ここでは、特に重要な3つのメリットを整理します。
- ✅ ① 経済的なリスクヘッジ
これが最も分かりやすいメリットかもしれません。収入源を複数持つことで、一つの勤務先の経営状況が悪化したり、診療報酬の改定で特定の業務の収入が減ったり、あるいは自分自身が病気や怪我で一つの仕事を続けられなくなったりした場合でも、収入がゼロになるリスクを回避できます。経済的な基盤が安定することで、安心して日々の診療や生活を送ることができます。これは、不確実性の高い現代において、非常に重要なセーフティネットとなります。 - ✅ ② 精神的な安定
「この仕事にしがみつかなくても、他にも選択肢がある」という状況は、想像以上に大きな精神的な安定をもたらします。例えば、職場の人間関係で悩んだり、理不尽な要求をされたりした場合でも、「最悪、この仕事は辞めても大丈夫」と思えれば、過度に我慢したり、自分を追い詰めたりする必要はありません。対等な立場で交渉したり、健全な距離感を保ったりすることが可能になります。また、複数の役割を持つことで、一つの仕事でのストレスを他の仕事のやりがいで相殺することもでき、精神的なレジリエンス(回復力)が高まります。 - ✅ ③ キャリアの自由度と可能性の拡大
ポートフォリオを組む過程で、必然的に多様な経験を積み、異なる分野の人々と繋がることになります。これにより、自分自身の新たな興味や適性、強みを発見する機会が増えます。また、複数の収入基盤があることで、リスクを取って新しい挑戦をしやすくなります。例えば、「収入は減るかもしれないけれど、本当にやりたかった研究に時間を割く」「臨床経験を活かして、医療系のスタートアップを立ち上げる」「副業で始めた情報発信を本格化させる」といった、従来のキャリアパスにとらわれない、自由なキャリア展開が可能になるのです。これは、自分の可能性を最大限に引き出し、より充実した職業人生を送るための土台となります。
医師こそ、ポートフォリオ思考で生きよう
かつて「安定」の象徴とされた医師という職業も、社会の変化とともに、そのあり方は大きく変わろうとしています。変化が激しく、不確実性の高い現代において、「一つの組織・一つの仕事」だけに依存する生き方は、かえってリスクが高いと言えるかもしれません。
「仕事のポートフォリオ」とは、こうした時代を生き抜くための、賢明な戦略です。収入源、役割、スキル、経験、人間関係などを意図的に分散させ、複数の柱を持つことで、経済的なリスクをヘッジし、精神的な安定を保ち、そしてキャリアの自由度を高めることができます。これは、まるで自分の人生を一つの会社に見立てて「経営」するような感覚に近いかもしれません。
「ポートフォリオなんて、特別なスキルや人脈がないと無理なのでは?」と思われるかもしれません。しかし、最初から完璧なポートフォリオを目指す必要はありません。大切なのは、「一本足打法のリスク」を認識し、「選択肢を増やす」という意識を持つことです。
まずは、週に数時間でもいいので、「本業以外の役割」を持つことから始めてみてはいかがでしょうか?
- 知り合いのクリニックで、週に半日だけ外来を手伝ってみる。
- 興味のある分野のオンラインセミナーに参加してみる。
- 自分の専門知識を活かして、ブログやSNSで情報発信を始めてみる。
- 地域の医療関連のボランティアに参加してみる。
どんなに小さな一歩でも、それがあなたのポートフォリオの始まりです。その小さな一歩が、数年後には思いもよらないキャリアの広がりや、人生の豊かさに繋がっているかもしれません。
医師という専門性を持ちながらも、それに安住するのではなく、ポートフォリオ思考を取り入れ、主体的にキャリアをデザインしていく。これからの時代を生きる医師にとって、そのような姿勢がますます重要になっていくのではないでしょうか。この記事が、あなたのキャリアを考える上での一つのきっかけとなれば幸いです。


